i和Design 〜多摩市立愛和小学校Exhibition of Publc School 〜


11月22日 i和design-11/22PM Exhibition of Public School(東京都)

 

多摩市立の公立小学校、愛和小学校に見学に行ってきました。

 

残念ながら午前中の授業公開は見られなかったのですが、

 

Edible School Yardの見学、

フリーアドレス職員室の見学(ディスカッションテーブル設置!)、

 

パネルディスカッション「公教育は変わるのか? 誰が変えるのか!」

モデレーター:古森剛氏(CORESCO) 

パネラー:松田悠介氏(TFJ)、浅谷治希氏(SENSEINOTE)、

関島章江氏(ISID)、松田孝氏(愛和小学校校長)

 

授業者の先生方&参加者による本音トーク会

モデレーター:佐藤昌宏氏(デジタルハリウッド大学院)

 

に参加してきました。

 

とても刺激的で、面白かったです。

 

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以下、思ったことを、まとまらないメモとして。

 

・パネルディスカッション

とりあえず「公教育」には私立学校も入ることを声を大にして言いたい笑

どちらかと言えば、入れないで自由にやらせてほしいが。

 

 

Q.小学校の社会的役割とは?

じっくり考えたことがないので、まだ自分の中に納得のいく答えはない。

パネラーの方々が仰ることには共感できる。

 

小中高大と進むに連れて、大きく眺めれば、

幅広い分野の多様な刺激から、専門的な関心分野への集中的な刺激へ、

という割合の変化をイメージしている。

 

とはいえ小学生であっても、

熱中していることをとことん追求させてあげたいし、

そういう経験は必須であると思う。

しかしそれは家庭が担うべき部分なのかもしれない。

 

 

Q.目指すべき方向は?

「個」「個性」「個別」がキーワードでは、とのこと。

 

個に応じた教育の必要性・重要性を否定は全くしないけれども、

学校という空間がそれを担うべきかは疑問。

 

個を追求するのであれば、

強制力を行使して1つの空間に同世代の子どもを集めることは、

そもそも矛盾をはらんでいると感じる。

 

多様な者が集まることの価値は全面的に認めるが、

会社と違って、明確な目的が共有されないまま、

多様性が高く個性が好き勝手に発揮されている集団は、

ただの烏合の衆ではないか。

 

会社は、明確な目的があるし、多様と言っても選別をしており、

「個性を発揮すべき」と言っても、

様々な制約(社会的・環境的・文化的・制度的etc)や条件がある。

(そして発揮して良い個性、発揮すべき個性と、そうでない個性とが、

意識的・無意識的に分けられている)

 

そのことが悪いということではなく、学校との違いとして。

その意味では、教育理念に基づく(はずの)選別が存在する私立学校は

会社にやや近いと言える。(現実として機能しているかは別として)

 

同世代の子どもたちに平等な教育を施すために作られた場所で、

個に応じた教育を行うことの矛盾をどう乗り越えるか。

 

おそらくこのレベルで議論をしていても決着はつかない。

 

学校で(あるいは社会で、会社で)発揮されるべき「良い」個性、

学校で伸ばすことを担う個性(学校ごとに異なっても良い)、

というものを明確に定義してしまうか、

(その点では、現在の、各教科の試験学力という基準は明確)

 

あるいは「個」「個性」「集団」「平等」「公平」といった言葉を使わずに

違う視点からこれらの議論をまとめあげて1つの方針にするか、

が解決策ではないだろうか。

 

 

・教員&参加者の本音トーク

「プログラミング教育」を受け入れきれない教員たちと、

そしてそれに驚き「プログラミング教育」の必要性や重要性を説明して

説得を試みるIT側の参加者たちとのやりとりは非常に面白かった。

 

教員とIT推進という両方の属性を一応は持つ自分としては

いずれの立場の意見も、その背景も分かるし、

そこにあった視点やレベルのずれも割と客観的に認識できたし、

それゆえに議論の決着はつき得ないだろうことも予想できた。

 

 

新しいことをやりたいが制度的にできなくて悔しいと感じている教員、

新しいことをやろうと昔は試みたが、挫折して今は諦めている教員、

新しいことをやりたくなくて制度を言い訳にする教員、

 

このような人たちに「新しいことの有用性」をいくら訴えても、

伝わらなさの種類は違えど、それを聞いて動くことはないだろう。

 

 

終盤で参加者の一人が仰っていた「プロセス」という指摘が的を射ている。

 

おそらくは教育界において同じことがずっと繰り返されてきたのだろう。

 

今日のやりとりに出てきた「プログラミング」という言葉を

「英語」「道徳」「税金」「法律」などに置換しても

そのまま議論になるだろう。

(もちろん、時代背景による実用性という点で違いはある。

その意味ではプログラミングと英語は近いか)

 

そのことが悪いわけではなく、新しい教育を導入することの有用性や効果、

現実性、必要性などを、当事者たちが真剣に議論することは必要であり、

それがあるからこそ遅々としてではあっても着実に

プロセスは進んでいくのだろうと思う。

 

プロセスが進み、残ったものが、今の教育現場で行われていることであり、

そうでない、淘汰されたものは消えていったのだろう。

 

 

その「新しい◎◎」を良いものと信じ、教育に導入したいと強く願う人たちが

変えようという意思を持つ教員と協力して

少しずつ実践していくしか道はないのではないか。

 

仮に学校規模でスムーズに変えようとするのであれば、

消極的な教員が「やらなければ」と感じるだけの強制力と、

積極的な教員が「やらされている」と感じないだけの自由度とを、

曲芸的なバランスで兼ね備えた導入の仕方が必要になるだろう。

 

 

 

最後に、色んな立場からの発言であってもそれぞれに理解できた今日の話の中で、

2つだけ「それは明らかにおかしい」と感じたもの。

 

1つは「やる目的が分からなかった」という趣旨の発言。

 

さすがにプロ意識が低い。

 

やると決まった以上は、納得していようがいまいが、

詳しかろうが詳しくなかろうが、全力でやらなければならない。

 

こじつけでも何でもいいから、それをやる理由を「自分で」考えて、

(与えられる前提なのがおかしい)

教育活動に位置付けて、その活動の有用性を最大限に引き出してやるのが、

教師という仕事であろう。

 

 

他の活動に時間を使ったほうがマシだと感じる行事や集会や活動はたしかにある。

 

思いついたようなアンケートや、

前からそうだからという理由だけで続けられている行事、

内容と趣旨の吟味も共有も行われないまま突発的に行われる集会など。

 

それらをなくしていく改革は間違いなく必要だが、

止めること叶わず、やることに確定したのであれば、頭を切り替えて、

いかにそのことの価値を上げるかに知恵を振り絞っていかなくては、

子どもたちに対して何の責任を果たしていることになるのか。

 

「土曜日の、こんな天気の良い日に、貴重な授業時間を使って、

やる意味がわからない」(その人にとっては)ことであればこそ、

その活動の質を少しでも高める努力をするのがプロだろう。

 

 

もう1つは、新しいことをやりたくない人たちの最後の切り札、

「子どもたちで実験をするわけにはいかない」。

 

「人生で一度しかない貴重な教育機会を、

試したけどダメでした、ではすまない」。

 

全くその通り。

 

だからこそ、新しいことでも何でも(もちろん既存のことも)、

チャレンジして最高の教育を追求しなければならない。

 

現状維持は、ゼロではなくて、マイナスだ。

 

現状でやっていることの効果なんて誰が保証できるのか。

「今までやってきたから」という薄っぺらい安心感しかない。

(しかも安心するのは子どもではなく自分だけ)

 

時代も環境も子どもも社会も親も変わっているのに、

どうして1年前と同じことをやって安心できるのか。

 

これもプロ意識の低さの現れだろう。

 

日々の授業1時間1時間がすべて実験であり、

入念に準備され、明確な意図を持って行われ、

効果が検証され、次につなげられなければならない。

 

 

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ということで、偉そうなことを書きましたが、

実に色々と考えるきっかけをもらったイベントでした。

 

本校での取り組みについても、考えさせられることが多くありました。

 

本当にありがとうございました。