ダニエル・ピンク「やる気に関する驚きの科学」(TED)

http://www.ted.com/talks/dan_pink_on_motivation.html

 

おそらくはTEDトークの中では有名な1つでしょう。

 

外発的動機づけから内発的動機づけへ

 

アメとムチから、

自主性と成長と目的へ、

 

これは間違いなく事実です。

 

なぜなら自分自身がそうだから。

 

おそらくは多くの人も、自分はその通りだと答えるでしょう。

 

しかしなぜか、ほかの人はそうではないと考えてします。

 

「コイツらはアメとムチがなければ動かない」と。

 

 

学習に関して、私自身もそうでした。

 

子どもを信じようと思っても、信じているつもりでも、

やっていることはアメとムチ。

 

そのデメリットを理解してなお続けているのだから、

より罪は重いのでしょう。

 

しかし、怖いのです。

 

代替案がないがゆえに。

 

アメとムチを手放した時に、

そこが無秩序になってしまうことが。

 

これほど勇気のいる捨て物はありません。

 

長く使えば使うほど、

それは自分の中で正当化され、

手放しにくくなり、

価値観となり、

アイデンティティにさえなり、

 

したがってそれを捨てることは、

自分を否定することに等しくなってしまうのです。

 

そして事実そうでしょう。

 

今それを捨てるのならば、

これまで使ってきた人生にどう言い訳すればよいのか。

 

教育であればなおさらです。

 

今まで教えてきた子どもたちは何だったのか。

償わずにはいわれない、しかし償いようもない。

 

捨てることは、過去を否定し、

未来に終わりのない大きな不安を抱えることになるのです。

 

とてもではないですが・・・

 

 

しかし、最近になって、

「少しずつ手放す」という選択肢が出てきました。

 

あるいはそれを選ぶ勇気が。

 

いわゆる躾の面ではまだ手放し難いのですが、

学習に関しては意外と手放す余地がありました。

 

子どもたちの「学ぼうとする意欲」、そして「学んでいく力」。

 

たとえ今はそれらがまったく見えない子どもであっても、

きっと持ってるはずだと信じられる自分を見出しました。

 

そのきっかけは、学びの共同体であり、

アクティブラーンングでした。

 

技術面から見れば、あるいは効果の面から見ても

「待ちすぎ」なのかもしれませんが、

「待つ」ことにそれほど抵抗がないことに気が付いたのです。

 

それはもしかしたら、

「無理やりやらせても、その瞬間だけだし」という

一種の諦めや開き直りによるものかもしれませんし、

 

「やるもやらないも本人の人生だ」という

冷たい突き放しによるものかもしれませんが、

 

それでも、

「そのうちやってくれるはず。始めるまでに少し時間がかかるだけ。」

「内容が面白ければ取り組むはず。やらないのは、興味深くないから。」

(教材そのものもですが、その提示・導入・紹介の仕方についても)

と信じて待てる、

あるいは相手のせいにしないで自分でできる改善に手を付けることができる

自分もそれなりの割合で存在していると感じています。

 

 

話の着地点が見えなくなりつつありますが、

この授業改革の取り組みの機に、

少しずつアメとムチを置いて、進んでいこうと思います。