佐藤学「『学びの共同体』で変わる!高校の授業」

 

授業と学びの大改革 「学びの共同体」で変わる! 高校の授業

授業と学びの大改革 「学びの共同体」で変わる! 高校の授業

 

 

これまで高校における実践がまとめられている本はなかったので、

大いに刺激と参考になりました。

 

同僚にも配りたいくらいです。

(しかし「学びの共同体」1冊目として読むには

実践に偏りすぎているかもしれません。

自分が幸いにも理論と実践と同時に入ったから、

そう感じるのかもしれませんが)

 

 

現在はiPad導入を先導して進めているように見えますが、

それと同時か、あるいは少し時期をずらしてか、

しかしいずれかのタイミングで、

より大きなビジョンのある協同学習を取り入れたいと考えています。

 

これは教師になったときから、

そしてiPadに関心を向けている今でも、

実は変わりません。

 

むしろiPadが、学びの共同体作りのツールにもなるとも感じています。

 

 

難しいのは、

アクティブラーニングは一人でも始められるけれども、

学びの共同体作りは一人や少人数では始められないところです。

 

正確には、始められることは出来ても、

全てを巻き込めない限り、定義的に実現には辿り着きません。

共同体、ですから。

 

 

そしてもう1つの難しさは、

ある種の宗教化した「学びの共同体」に対しては

どうしても距離を置きたくなってしまうところ。

 

Learning Communityとしての学びの共同体には大賛成ですが、

カギ括弧付きの「学びの共同体」には引いてしまいます。

 

私としては「学び合い」や「TOSS」も同じように捉えています。

 

最初に提唱した人は、みなさん尊敬しています。

やはり言葉も響くし、説得力も段違いです。

 

しかしそれが継承されていくといつの間にか・・・

 

もちろんビジョンのレベルの話を含むので、

ある意味では信仰レベルの話になってしまうのも

止むを得ないのかもしれませんが。

 

でも、共同体が目指す在り方が1通りしかないなんて、

それはおかしいですよね。

 

目の前の子どもたちと家族と、教職員と、地域の人たちにとっての

学び合えるコミュニティにしたいのです。

 

「〜〜を取り入れて〜〜を目指して『学びの共同体』を作りましょう」ではなく、

「学びの共同体をどうしたら作れるか」からスタートできたら

理想的だと思います。

 

さらに言えば、なぜ学びの共同体を作るのか、

という問いへの答えが自然と出てくるような、

学校としてのraison d'etreから明確にしていきたいですが。

 

それを明確にし、具体化したときに出てくる選択肢が

学びの共同体でないならば、そちらを選択するべきなのでしょう。

 

 

こういう、そもそも論まで立ち返りたくなってしまうところは

昔から変わらないなぁと自分でも思います。

 

ただ、現実への対応と同時並行で考えられるようになったのは

大人になったということなのでしょう。

 

それが、得たものなのか、失ったものなのかは、

判断が難しいところですが・・・