解説を考えさせる授業。

自分の現在の授業形態を振り返ってみると、

 

ヒントや解答例のプリントを配っているのは、

「板書を写す時間の節約」と

「自分で解答を作成するときの参照例」

としてでした。

 

そして解答を先に配ってしまうことも、

「目の前にある問題が、今の時点で自力で解けなきゃいけないわけじゃない。

目指すところはとりあえず受験なのだから、

今はたとえ答えを見ようが、とにかく目の前の問題を自分なりに理解して、

今後、同じような問題に対応できるようになればそれでよい」

という考えによるものでした。

 

そして問題と解答を一緒に配ってしまうことに驚く先生には、

「手元に解答があるからといって、

『解答があるなら試験前だけ見ればいいや』

と授業に参加しなくなってしまう子や、

逆にいきなり解答を見て、写して、満足してしまう子は一人もいません。

 

どの子だって、自分に理解できるところまでは理解したいんです。

分かりたい、成長したいんです。

謎を解明したいのは本能であり、分からないことは悔しいことなんです。

 

それでもやらなくなるのは、悔しさを上回るくらい難しいから、

それくらい分からないからです。

 

だからヒントや解答のように、一つでも分かるきっかけがあるなら、

まして解答という一つの到達点が手元にあるなら、

安心して自分のペースで、自分が学べることを学んでいくんです。」

と説明しています。

 

子どもたちの中には、「ヒントちょうだい」と言う子がいる一方で、

「やり方教えて」という子がいて、

最初は、「やり方が分かればそれでいいのか。

やり方を聞いてその場は出来ても、分かったことにはならないぞ」

と思って嫌な顔をしてしまったのですが、

実は「やり方教えて」の子も、本当に欲しいのはヒントなんだと気づきました。

 

「やり方教えて」と言われたからと、手順を教えてしまうと、

「ふーん」と言って、つまらなそうに答えを出すんです。

 

でも手順でなく、「この問題と同じ考え方が使えるよ」とか、

「教科書のここの話を使うんだよ」と言うと、

すぐ身体が問題に戻るんです。

 

今まで手順を教えなかったことで、

「面倒くさい」とか、「そうじゃなくて解き方教えてよ」とか

言われたことはありません。

 

やり方を聞いちゃったゲームのつまらなさや、

オチを聞いちゃった物語(本・アニメ・マンガ)のつまらなさを

(でも自主的に2週目に入る場合は楽しい、というのは不思議ですよね)

ちゃんと知ってるんです。

 

 

話がそれました。

 

そういうわけで解答を問題と一緒に渡しているのですが、

 

でも実は私の授業が子どもたちに要求していることは、

 

「解答例の行間から解説を読み取る」

という重要かつ高度なことなのだと気が付きました。

 

気が付いてみれば、たしかに配布資料に「解説」が足りません。

 

もちろんそれは授業の中で行っているのですが、

子どもの手元にはありません。

 

そして私の解説を、手元の解答例に書き加えて、

自分なりの「解答・解説」を作っているのです。

 

ここでも「板書コピー時間の短縮」効果はあって、

解答例はすでに手元にあるので行間や横のスペースに、

解説だけを書けばよい、ということで労力が軽減され、

「写すのに精いっぱいで話を聴いてなかった」

という状況が起こりにくくなっているようです。

 

 

このやり方がベターなのかどうかは分かりませんが、

今の時点で気付いたこととして、記録しておく次第です。